kshinshin's blog

ヨモヤマ話

映画「フローズン・グラウンド」

ニコラス・ケイジの出る刑事映画で、それが実話であるというなら、眉唾ものだから、観ないでおこうと思って試写案内も劇場公開もスルーしてしまったことに、僕が恥じ入ることになってしまったという映画である。

ティーンの娼婦がレイプ監禁から逃れてきて保護されるが、地元の警察はまったく彼女の証言を信用せず、下手人のはずであるジョン・キューザックを野放しにしてしまう。同時期に処刑スタイルで殺された遺棄死体を発見したニコラス・ケイジら州警察は複数の失踪事件と結びつけ、連続殺人事件として捜査を開始する。そこで浮かんできたのがジョン・キューザックで、前科もあるが、証拠がなく、唯一、生き残りの娼婦が鍵を握るというわけで、ニコラス・ケイジは彼女の保護に乗り出す。だが、性的虐待の被害者で、11歳から売春をしているという彼女は「保護される」「信用する」ということに慣れていない。だから、肝心要の場面で逃げまわる。ここはもどかしい気分になるが、演出がドライかつお涙頂戴を狙わないので、ああそうなんだろうな、仕方なしと観ていて納得できる。ニコラス・ケイジはやっと逮捕状を得るが物証が少ない、殺人ではなく監禁誘拐とレイプで訴追すると検察は主張するが、彼は最後の尋問に賭ける。

流れはスムースで、基本的に作為的なサスペンス描写を回避して、出来事をなるだけ距離をおいて演出するので、エモーショナルな点は被害者への哀惜というもののみで、実録刑事物としては真摯なつくりである。それがかえって事件の残虐さや犯人の気味の悪さなどを引き立て、アラスカ州の厳しい自然も相まって、佳作に仕上げている。スコット・ウォーカー監督は注目していっていい手腕の持ち主ではないか。

本編中、素晴らしいのは、街の路地に現れて雑草を食うヘラジカを娼婦が見つめる場面である。意味を盛らずに、極力、画の力でなにものかを呼び起こそうという意図があり、その意図を気づかせなければ、天才の域の監督ではあるが、それはないものねだりであるから、この際はさておくことにして、素晴らしい画面をみせてくれたと喝采することにする。

 

岸川真

映画「イーライ・ロス in ザ・ストレンジャー」

ザ・ストレンジャーと聞いてオーソン・ウェルズを思い出したが、どうでもいい話だ。イーライ・ロスがプロディースした本作は感染とか何とか書いていても結局のところはヴァンパイアである。

16年前に妊娠をきっかけに別れた妻を探して、夫が火山の麓にある、入江の街にやってくる。このロケーションがまず素晴らしく、ハッとした。妻は他界し、遺された子供は看護婦の養子になっている。夫が墓地で暴漢に襲われ、その暴漢の父親が警部補で、グルになって事件を隠蔽しようとするが、基本的に不死である夫は蘇生し、何も知らない息子に救けられる。ここで歯車が狂い、暴漢は夫と息子を狙い、返り討ちに遭い、その復讐に燃える警部補は夫を逮捕し、息子も亡き者にしようとする。夫は体を張って守りぬくが、養母が息子を助けたい一心で重篤の警部補の息子、つまり暴漢をヴァンパイア化させることで救ける。けっきょく、暴漢ヴァンパイアはやっぱり暴漢で、さんざん暴れ、親父の警部補との約束も反故にする。親父も親父で諦めずに夫とその息子を消そうとして死んでしまう。息子をヴァンパイアにしたくなかった夫だが、これもけっきょく、息子もヴァンパイアになってしまう。

一対の父子を描き、吸血鬼の血族の哀しさも湛え、90分におさめているところが好感がもて、飽きさせない出来になっている。印がどうのこうのという話が未解決であったり、息子はこれからどうすんのさ、という気になるところはあるけれど、一作で終えておいたほうが良さそうに思うぞ。

イーライ・ロス節は復讐というテーマくらいで、吸血無宿というか、そういう人情話になっているので、別段、イーライ・ロスを歌わなくともよかったように思うが、それがなければ観なかったことを考えると、つけておくのも効果があるものだなと、書いていて一本取られた気がする。

負けたよ、イーライ・ロス

 

岸川真

映画「アフターショック」

才人イーライ・ロスの脚本出演作。チリに旅行でやって来たアメリカ、ハンガリー、ロシア、地元民の一行がワイワイと騒ぎ浮かれるのは「ホステル」以来の常道である。だいたいのバックグラウンド紹介を終えると手際よく地震が起き、事故や暴徒が彼らの脅威になる。

事故や地震だけではあまり絵にならないと判断したのか、暴徒のレイプや殺人が後半の恐怖となるわけだが、容赦なく生き残ることを遮断するシナリオには拍手したい。相変わらずダメ男共と美女の取り合わせで、陰惨な中にもポルノとしての恐怖映画を成立させる巧みさはイーライ・ロスの職人技である。

地震や集中豪雨にじっさいに遭った身としては、人の力が届かない暴力を描いた本作の商魂に脱帽しつつも、グリンゴ、まだ甘いなともほざくことができたのである。

 

岸川真

映画「トロール・ハンター」

ノルウェーの山や森に棲む伝説のトロールは実在しているという話。「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」以降のPOVによる恐怖譚だが、これはホラーというより怪獣映画である。トロールがテリトリーを離れて暴れまわるのを止める、トロール・ハンターが非情に格好良く、それだけで拾い物。三人の大学生クルーが撮影するという仕掛けはどうでもいい感じもあるが、どうでもよくないように作ってあって、まあ、仕方ないので付きあおう。

特筆すべきはトロールの造形で、巨大なやつから小型のやつまで、いろいろといる。シンプルにデフォルメしたら可愛いだろうが、じっさいは巨人であり、肉食獣である。政府が彼らを抑止しているがハンター一人というのは、いただけない。ハンター自身も待遇や体制を変えろと言っているので、そこはどうなったことやら。

 

岸川真

映画「或る殺人」

オットー・プレミンジャーの法廷劇。ジェイムズ・スチュアートヤメ検がベン・ギャザラが起こした殺人を弁護するのだが、ベン・ギャザラはレイプされた妻をみて逆上し、犯人を射殺したという。心神喪失状態か否かを問うわけだが、レイプはじっさいになされたか、というところも争点となっていて、多情な妻の素行の悪さや精液が膣内から発見されていないなどの障壁があり、裁判は激しい論戦となる。

この論戦が主な場面であり、2時間半を超える長尺を保たせるのは裁判官役、ジェイムズ・スチュアート、その秘書と相棒、被告のギャザラと妻、そして検察官のジョージ・C・スコットである。

スコットVSスチュアートは見応えたっぷりで、直線的なスコットと緩急自在のスチュアートという好一対により、裁判を最後まで見守ることが出来る。

 

岸川真

映画「ディフェンドー」

ウッディ・ハレルソンという俳優は好きだ。なんの活躍もしなかった「ノーカントリー」での演技に感心して以来、好きでいる。その彼が主演したのが本作で、スロウな自警「ディフェンドー」を描いたものだ。

麻薬中毒の母親は失踪したまま、その原因たる麻薬売人こそ悪の根源だと信じて、夜な夜なパチンコ、蜂、ビー玉、トレンチバットをもって悪党をやっつけようというのが彼だ。寒い街の描き方がじっくりしていていい。周囲の人物、とくにキャットという若い娼婦と我らがCJがハレルソンの友人で上司を演じていて味がある。

物語の展開はコメディというよりクライム・サスペンスの一種で、どこか「タクシー・ドライバー」を想起させるところもあったりして、極めてストレートな演出に感心した。僕はノーラン=バットマンは嫌いだし、「アベンジャーズ」も興味が無い。ああいうムキムキした体育会は敬遠しているし、ことさらに己の行為に悩みまくるヒーローも必要がないと思っている。なので、このハレルソンは好感が持てるし、アメリカ人が好きなイノセントな善人を嘲笑おうという気もなく、素直にヒーローに憧れたガキっぽさを追体験させられ、その結末にもグッと来るものがあった。

結末の容赦なさもまた、いまの作品という印象を与え、甘くないというところも、かつては不満に思うだろうが今では受け入れられる。21世紀のヒーローは確実に死にさらされている。幸福は希求しても感じてはならない。それはならないのだと、守るべき大衆に示す役割を担うようになったからだ。80年代、90年代は生き残り、悪を罰することで幸福を得られるという幻想を持てたが、いまとなっては、悪も善も等価交換出来、多様性という虚妄に取り憑かれてしまい、善を唄うことは難しくなった。善を唄うならば死を受け入れろ、そう時の神は言っている。

人柱となるヒーローはそうそういない。

悪を倒してどこかのカフェで恋人と睦まじくするとか、悪の果てまで仕事すると決めたワーカホリック気味のヒーローたちばかりが目立つ。

そのなかでひっそり息を引き取るディフェンドーは最も現在形のヒーローであると言えるだろう。ハレルソン、かっこいいぜ。おめでとう。

 

岸川真

映画「魔警 クリミナルアフェア」

リンゴ・ラムダンテ・ラム(ご指摘ありがとうございます)いう監督を手放しで褒めるほど、まだ僕は彼を信じてはいない。ジョニー・トーほど、出自や主張を理解できない変わり種であるからだ。その彼の「魔警」はニック・チョンが無慈悲な悪党を演じ、ダニエル・ウーが生真面目だがトラウマいっぱいいっぱいな、あぶない警官を演じている。

以下、結末まで触れることにするが、その結末の経緯は観て欲しい。ここには煩瑣なので書かないでおく。

鬼王団なる無慈悲な強盗団の頭目株であるチョンが傷を負って救急病院へ駆け込み斃れる。彼と血液型が同じダニエル・ウーは輸血を申し出て、命を救うが、特捜隊の面々には馬鹿にされ、罵られる。同期の婦警に引き上げられて二ヶ月後に現場復帰するが、あぶない警官だから敬遠される。病院をやっぱり無慈悲に脱出したチョンは再度強奪計画を立てて、仲間とヤマをはる。

警官隊とチョン一味が銃撃戦を続けているなかに、ダニエル・ウーもやってきて、無慈悲なチョンの攻撃に遭い、ダニエル・ウーの同僚が焼死する。ダニエル・ウーはそれからあぶなさが増して、無慈悲な瞬間も迎えるようになり、自身困惑の果てまで行く、その前後でチョンは裏切られて死ぬ。

チョンを追いかけることにしたダニエル・ウーはあぶないので、上司の婦警の姉がカウンセラーなので治療を受けるが、まったく効果はなく、ただあぶなさが増進し、加えてチョンばりの無慈悲を獲得してしまい、長年追っかけているはずの特捜隊より先に鬼王団に迫れてしまう。ダニエル・ウーとは血の繋がらない婆さんが死んでしまい、なんだかまた幻覚幻聴で罪悪感を抱え、あぶなくて無慈悲な警官が完成されて、一味を叩き潰すのだが、彼の悩みを知る婦警も裏切り者の警官も、その他もろもろ事情通が死に絶えて、ダニエル・ウーも成仏してしまうのだから凄まじく、あぶなくて無慈悲な終幕だ。

リンゴ・ラムの狙いはラストの字幕でわかるか、というとわからないので、安心だ。取ってつけたような、字幕での説経節は嫌いではない。そういう投げやりな手法は勇気がいる。周囲はやめろと言うだろう。だけどいいじゃないか、もうそういう話で。リンゴ・ラムがそう考えたかどうか知らないが、投げやりにくっつけてみたのなら、信頼できるフィルムメーカーだ。

 

岸川真