kshinshin's blog

ヨモヤマ話

筒井康隆「モナドの領域」を読んだ、というか読んでしまった論

昨日発売の「新潮」を買った。三鷹啓文堂書店でだ。「モナドの領域」を読みたいからだった。速攻で売り切れたというので、朝イチで買いに行ってよかった。で、三〇〇枚越えの長編、腰を据えて読もうとしたら、喫茶店の椅子に座ると、腰痛がギチっと音を立てて再開する。木金土曜と治療したのに、ぶり返した。そっと家にへばりついて、週末は過ごしたのに。午後の仕事を終えたら、もういっかい、鍼灸院へ大森に行こうと電話で予約し、「新潮」を開いた、ら。

時をかける読書というのでは、茶化したと思われる向きはあろうが、本当に冊子の右頁のA点から対向頁B点へ閉じる行為で移行したというような、読書、閉じられていく運動があっという間というような読書で「モナドの領域」を読了した。

体感時間はそのようなものだったが、時計を見ると三時間が経過していた。午後の仕事に遅れてはならんので、慌てて身繕いをして外へ。ドッタンバッタン歩いているわけでもないのに、腰が痛い。股関節が痛い。俺はまだ四〇代前半ですよ、と泣く泣く中央線に乗り込んだ。

さてそんなことはどうでもいい。山口瞳「男性自身」でもあるまいし、そんな腰痛がどうのこうのを読んで面白かろうはずがないし、書いていて面白くもなんともない。

モナドの領域」という小説である。

これは、筒井康隆という小説家に、有難う御座いました、と「新潮」頁へ向けて、ボソリとでもポツリとでも、叫ぶとしてもいいが、言うしかないということで批評は封じられる小説である。批評を封じることは天才しか出来ないと、たしか菊地成孔が書いていたように記憶するが、これはそういう小説である。だから下記に書く無内容な戯言は批評を封じられたまま書くので、そのままウェブページを閉じられても構いません。

開巻いきなり猟奇的殺人現場が描かれる。この細かやかなこと。飛蝗もありがとうという他ないのだ。美貌の警部と読んで、美貌というワードがファンにはあれこれ想像させるが、ファンでないなら不穏な期待を抱かせ、川端康成やら手タレという言葉がうじゃうじゃ現れて、バラされた人体のことより、バラされた言葉に気を持って行かれたりして困ってしまううちに、パン屋さんである。

パン屋さんで美大生の謎のパン焼き行動が謎めき過ぎるだろうという感じで綴られた末に美学を学ぶ美禰子さん(夏目だよ、おいおいと思うファンも居るが、それでなくてもどうでもよろしい)やら先生が現れて、神的行動に及んでいく。

そこで「オーゴッド!」オンリーゴッドであり、裁判劇になだれ込んでドストエフスキー亀山郁夫やら、GODも俗語でずっこけさせ、あれよあれよに時間論や存在論に移行して、トマス・アクィナスを読みたいなあと思わせて、あれれ、これはあの岩波書店で大ベストセラーになった教授の小説ですか、あれと思う間もなく「時かけ」である。

わ、哭いてしまうと目頭を押さえる準備に右手が動いたら、あれ、あれれれれれれれれれれれれれっ(筒井康隆のように升目を一文字で埋める行為は意識的に難しいと、いま思った。ここまでが凡夫の限界である)と思い、先生、しつこいなあ、脂ぎってるよ! と思う。

泣かせて終わりなら、【今様】の名作である。

ところが「モナドの領域」は、筒井康隆はそうしない。【今様】は眼中にない、エンタメからズレる。別の時間軸、空間にある世界のエンタメに移行する。内容もその総体もだ。ハードランディングとも言っていいラストで呆然としたわけだが、時間・空間旅行とはそういうものかもしれない。

モナドの領域」とは何か?

そのひとつとして、凡夫である僕が挙げられるなら、この小説自体が「時間・空間旅行装置」であり、筒井康隆小説世界そのものが「モナドの領域」であることは言うまでもなく、僕らは何十年もの間、「筒井康隆の領域」で夢をみていたのだ。

ということだろうか。

まずは読まねば始まらない。読めば始まる小説である。

 

岸川真